
ギルフィー買取の分かりやすい記述
どんなに親しくさせていただいていても、一旦ことが起これば、会社の利益代表としてその方との愉快ではない交渉に臨まなくてはならない場合があるのです。
よく「誰々とは親しくさせていただいているわ」「家族ぐるみのお付き合いなの」と話しているプレスたちもいますが、こういう人たちはどちらかというとプレスというよりは、社交ウーマンです。
プレスにはお付き合い業も大事ですが、お付き合いビジネスが有効なのは、担当するブランドが羽振りのいいときです。
ブランドが苦戦しているときにはなかなか通用節度を保って、心を通わしませんし、ブランドが落ち目になってくると、親しくさせていただいていた人も、家族ぐるみだったはずのご家族も、なぜか身の回りからいなくなってしまうものです。
そういうときの人の反応で、いろいろなことが分かるのも面白いものですが、いずれにしてもあまり品のいい話ではありません。
プレスの付き合い方はバランスよく、節度あることが基本です。
それを守りながら心の通い合う友情や深い尊敬の念が生まれる付き合いまでに発展させられれば言うことはありません。
怖い、すごいと噂になるファッション関係の仕事を得意とするC社という広告代理店があります。
そこでB担当となったT氏とは同年代ということもあり、波長が合って、仕事が終わるとよく連れ立っては飲み歩き、飲み歩いては広告の話をしていました。
お互いにトスカーニが大好きで、彼がどんな広告写真を撮るか、それを自分たちがどんなふうにプロデュースするか、そんな話を毎日のようにしていました。
その彼が私につけたあだ名が「怪物」。
それだけ私の仕事の仕方が型破りで、悪く言えば乱暴だったからでしょう。
一人息子を実家に預けて仕事に専心するようになると、子供のいない部屋に帰るのが嫌でいつも深夜まで仕事をし、その後街に繰り出すという生活をしていました。
別時間仕事のことばかり考え、茨城の実家に預けた子供に会える週末だけを楽しみに仕事をする。
その頃の自分の心はいったいどこにあったのだろうと振り返って思います。
この頃の私の仕事の仕方はまさに直球勝負。
まどろっこしく仕事をしてくる外部スタッフがいると、それに割かれる時間が惜しくて担当を替えてもらったり、出入り禁止にしたり、取引をやめたり。
座って打ち合わせすると不必要に長引くからと、立ったまま接客していた時期もありました。
私が取引を断ったことで、ある外資系広告代理店の課全体が解散になったと聞いたこともありました。
また「お前なんか辞めさせてやる」と脅してきた大手の広告代理店の部長は、「お好きにどうぞ。
私には働く所はいくらでもあるの。
それより会社がこんなことで私をクビにするはずがない。
オタクは会社が大きいのだからクライアントはうちだけではないはず。
」とばっさり。
いつの間にか「BのWはすごいぞ、怖いぞ」という噂が流れ、広告代理店の中には誰をB担当者にするか悩んだところもあったそうです。
あるとき、ある雑誌と編集タイアップの打ち合わせがあり、通常そのような場には出てこない編集長が打ち合わせに参加してきたことがありました。
その編集長は歯にもの着せずバシバシと主張を述べてきます。
私も負けずに会社の要望をねじ込もうとします。
そのうちお互いにどちらともなく笑い出し、最後は握手でさようならとなりました。
打ち合わせの前に、その編集長は周りからこのように聞かされていたそうです。
「今回打ち合わせに出てくるBの広報のWはものすごく強くて、手ごわい」。
それで彼は「部下Wに丸めこまれないように打ち合わせについて来た」と言うのです。
話がここに至って、ふたりで大爆笑。
私はこの編集長とすっかり意気投合し、今でもパーティー会場で出会うとその話で盛り上がり時はバブル期後半で、広告業界やファッション業界では仕事の延長として豪著な食事会やゴルフやパーティーなどが日々、開かれていました。
私は加代前半。
キャリアも勉強も不足している自分のことは自分がいちばん知っており、どんなに頑張っても追いつけない仕事のスピードに何とか追いつき、走っている車に乗りこもうと焦っていた時期でした。
120カ国のPR部隊と競うこのように実際に会ったことのない人たちにとっては、私はとても怖い存在だった私がB・ジャパンの広報宣伝部門の実質的な責任者になった例年、初めて単身で顔合わせと挨拶にイタリア本社に行きました。
私の上司にあたる本社の責任者は、「初めまして」という挨拶もそこそこに、日本の広報宣伝部に対しての要望を機関銃のごとく話しはじめ、一方的に話し終わると「それでは頑張って」と席を立ちました。
これには驚くと同時に、瞬時に私は今後の自分の仕事の進め方を悟りました。
さらに今まで見たことのないといわれるプレスになるの企業規模に驚惜し、社員のパーセントは女性という自由闇達な社風に圧倒されたのです。
今では広報部門のトップとなったMはじめ女性陣が、自信に満ちあふれ働いていた姿を昨日のことのように思い出します。
そのとき私は、その当時の日本の企業と異なり、Bが人を「オトコかオンナか」ではなく、「仕事ができるかできないか」で選別する企業だと知ったのです。
初めてのB本社への出張から戻ると、私は、当時はまだ寄せ集めの集団だった広報宣伝部のスタッフに本社の要望を伝えました。
そして、それをどのように日々こなしていくかに取り組む毎日となりました。
まず日本国内で報道されているすべての記事を、本社が開く午前V時までに、すなわち日本時間夜6時までに翻訳を添付してファックスで本社に送らなければなりません。
記者発表の翌日に各紙一斉に記事が出た場合など、翻訳が間に合わず、夜中までかかってしまいました。
Bは世界で120カ国に展開しており、すべてとは言わないまでも、大半の国のPR責任者は一斉にその日、自国メディアに掲載された記事をイタリア本社に送ります。
これによって経営幹部はリアルタイムに、自社が世界でいかに評されているか分かるのです。
月末には、その月に自国で掲載されたファッション記事の切り抜きとメディアデータ、貸し出しに訪れたスタイリスト名までを併記して、分厚いファイルにして本国に送ります。
その結果、年に2回行われる世界PR会議の席上で、その記事を金額換算した数字が公表され、各国のプレスの活動がランク付けされます。
さらに、その月の広報部門全体がどのような活動をしてきたのかについてのレポートを提出させられたときもありました。
それらの通常業務とは別に、年2回、伝説のトスカーニが送り出すワールドワイドキャンペーンと銘打ったB世界共通キャンペーンの仕込みを行っていた時期もありました。
ご存じのようにBグループは、その広告戦略で、常に世界の注目を集めてきた企業です。
この広告戦略は、別年に写真家Oを、Bの企業広告のクリエーティブディレクターとして迎えたときからスタートしました。
彼の参画により、Bの広告は革新的に変化したのです。
一切の製品広告を排除した、メッセージ性の強い彼の一連の広告は、彼がBグループを去る2001年まで、常に世界中の広告業界に衝撃を与えました。
新しい広告が出るたびにほとんど毎回、その広告ビジュアルの是非をめぐり、大論争が巻き起こりました。
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